神道を理解する上で最も重要であり、最も誤解されやすい概念が「神(かみ)」である。英語では 'god' や 'deity' と訳されるが、これらの語が呼び起こす連想は積極的に誤解を招く。神は大文字のGod(唯一神)ではない。西洋の一神教的概念が許容するよりもはるかに流動的で、複数的で、自然界に埋め込まれた存在である。
18世紀の国学者・本居宣長が残した定義が今も最も広く引かれる。「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏き(かしこき)もの」——深い畏怖の念を覚えるもの、それが神である。天照大御神、素戔嗚尊、大国主命といった偉大な神話の神はもちろんだが、それだけではない。山は神。川は神。古木は神。奇岩は神。狐・鹿・蛇は神の使いであり、時に神そのものでもある。雷は神。稲を実らせる力は神。子孫に敬われる祖先は神になる。生きている人間でさえ——天皇、偉大な武将、深遠な学者——神と認められることがある。
「八百万(やおよろず)の神」という表現は「800万の神」と訳されるが、実際には「数え切れないほどの神」を意味し、聖なるものが唯一の至高存在に集中するのではなく、存在の全構造に遍在しているという神道の感覚を捉えている。神を見つけるのに上を見上げる必要はない。周りを見ればよい。
これはキリスト教・イスラム教・ユダヤ教のGodとはいくつかの決定的な点で異なる。第一に、神は超越的ではない——自然界の外部や上方にではなく、内部に存在する。自然と超自然の境界は神道の思考にはほとんど存在しない。第二に、全知全能ではない。個性や好み、さらには欠点も持つ。神話の神は喧嘩し、間違い、嫉妬し、一神教のGodに帰すればスキャンダルになるような振る舞いをする。第三に、道徳的に絶対的ではない。各神は穏やかで育む和御魂と、荒々しく破壊的な荒御魂の両面を持つ。
最も重要なのは、人と神の関係が全能の創造主への絶対的服従ではないことだ。それは互恵的である。人は供物・祓い・祭りで神を敬い、神は守護・恵み・自然の維持する力で応える。もし神が顧みられなくなれば——供物が途絶え、社殿が荒れ、祭りが廃れれば——神は怒り、あるいは単に恵みを引き上げるかもしれない。この互恵性が、神社の維持管理や祭りへの参加が重視される核心的理由である。
新しい神は今も生まれ続ける。近代の最も有名な例は、1920年に東京の明治神宮で明治天皇と皇后が祀られたことだ。9世紀の学者・政治家の菅原道真は、配流先で没した後、一連の災厄が怨霊の仕業とされて天神として神格化され、学問の守護神となった。神になる過程は遠い過去だけのものではない。
「神」を理解するのに信仰は必要ない。必要なのは注意力——世界が単なる物質以上のものであること、ある場所やある瞬間が物理的なものを超えた力を帯びていることに気づこうとする姿勢——である。この感受性こそが、神道があらゆる訪問者を迎え入れる扉なのだと言えるだろう。